夢見るひび

粘り強く、情熱的に

自担の話

 重岡くんを好きになる前は、嵐の二宮くんが好きだった。

 実際、掛け持ちしてた時期も1年弱くらいあって、でも結局私は重岡くんを選んだ。選んだ、っていう表現が適切なのかどうかはわからない。

 いわゆる「担降り」をしたときツイッターに書いたけれど、私はそのときうちわを2枚胸の前に掲げている状態で、そうしながらも目で追いかけてしまうのは重岡くんだった。だから、二宮くんの名前が書かれたうちわを引き出しにしまうことにした。好きな気持ちは変わらないけど、おやすみしよう、と思った。あれから、たまに引き出しを開けて眺めることはあっても、そのうちわを持つことは1度もなかった。

 

 

 私にとって二宮くんは、革命のひとだ。

 二宮担になった15歳のとき、ジャニーズすらよくわからなくて、嵐はもう大人気だったけれど顔がかろうじてわかるくらいでフルネームは曖昧だった。アニメや漫画が好きだった私はジャニーズを嫌悪すらしていた気がする。でも、何を思ったのか本屋でテレビ雑誌を手に取り、ぱらぱらと捲っていたとき、二宮くんに出会った。

 こんなに可愛い男のひとが存在するのか、と衝撃を受けた。受験生の夏だった。テレビではちょうどその頃、潤くんの「夏の恋は虹色に輝く」が放送されていた。

 嵐を好きな友達がいたから、その子に連絡をとっていろいろと教えてもらった。嵐のレギュラー番組があること。それがちょうどその次の週にスペシャルをやること。5人の仲がとても良いこと。二宮くんはゲーマーで少食だということ。生ものが苦手なこと。魔王が神ドラマで、それに二宮くんもゲスト出演しているということ。山田太郎ものがたりはリアルタイムで観ていたけれど、観返したほうがいいこと。

 最新のシングルCDを借りて、MVを観た。MonsterとTo be freeだった。君と僕の見ている風景のコンサートDVDは、友達のお母さんがくれた。今でもたまに観る。Movin' onで出てくる5人が大好きだった。

 ドラマも、バラエティも、雑誌も、CDやDVDも、たくさん観た。嵐はテレビで観ない日のほうが少なかったし、私は乾いたスポンジが水を吸うみたいに、嵐を、二宮くんをどんどん取り込んでいった。受験生だというのにのんきなものだけれど、楽しかった。

 嵐の魅力に気づいて1ヶ月ほど経ったある日、今は放送終了してしまったMusic Loversに嵐が出演した。私にとって、それは初の「歌番組で観る嵐」だった。それまでも観たことはあったはずだけど、そわそわしながらテレビの前で正座して、特別な気持ちで放送を待つのは初めての経験だった。

 その日、私ははじめて、「このひとが好きだなあ」という気持ちで泣いた。悲しいとか悔しいとか、楽しいとか嬉しいとか、そういうことじゃない。喜怒哀楽のどれにも当てはまらない感情だった。ああ好きだ、と思ったら、涙がぼろぼろと出てきた。嵐はきらきらと輝いていて、そのなかでも二宮くんはいちばんのアイドルに見えた。

 

 二宮くんが大好きだった。二宮くんに出会って「担当」という概念を知ったし、誰かを応援することの喜びを知った。器用で頭がいいのに天邪鬼なところが大好きだったし、カメラに向かってウィンクを決めるのがどうしようもなく可愛くてかっこよくて、こだわりを持たないっていうこだわりを持ってるところとか、ファンの前ではいつでも100点満点のアイドルでいてくれるところとか、嵐が大好きなところとか、知れば知るほど二宮和也というひとにのめりこんでいった。

 大好きだった。大好きだったけど、大好きだったのに、降りた。

 二宮くんを好きになって3年経つと、私は18歳になって、大学受験を迎えた。以前このブログでも記事にしたけれど、勉強に追われた私は、嵐離れをしてしまった。レギュラー番組の録画をため、CDやDVDは未開封のままで、雑誌も読まなかった。嵐はどんどんお仕事が増えていく、追いつけなかった。取り残されていくようだった。たぶん、そんなことはなかったのに。

 そうして、大学に入学した私は、ジャニーズWESTに出会った。

 

 

 わずかな前情報だけでジャニーズWESTの「なにわともあれ、ほんまにありがとう!」に参加した私は、あっけなく重岡くんに落ちた。あの感覚はほんとうに、落ちた、がふさわしいんだと思う。二宮くんに感じた衝撃とはまた違うけれど、重岡くんも確かに、私に革命をもたらしてくれた。

 ジャニーズWESTはデビューしたばかりで、嵐とはメディア露出の仕方もファンへの関わり方も全然違っていた。まず、レギュラー番組はなかった。たまに特番が組まれても、関西地区での放送に限られている。そう、ジャニーズWESTは関西のグループなのだ。関東に住む私にとっては、ラジオもテレビも何もかも遠い。でも、はじめて関西に住むフォロワーさんに番組をダビングしてもらった。ツイキャスでラジオを聴いた。遠征で大阪に行くのも、とてもとても楽しかった。

 番組も、雑誌も、ラジオも、何もかも、新しいものが決まるたびに飛び上がって喜んだ。はじめての感覚だった。嵐は何もかも持っていたから。望まなくても手に入っていた。そのことがとても恵まれていたのだと知ったし、ジャニーズWESTが着実に活動の幅を広げていくのを見ていけることが刺激的で、毎日楽しくてしょうがなかった。

 重岡くんが「ごめんね青春!」に海老沢ゆずる役として抜擢されたときのこと、今でも覚えている。錦戸くんの横に並んで写真にうつる重岡くんは、海老沢くんは、紫っぽい学ランを着て笑っていた。錦戸くんは私にとって、「二宮くんの後輩」で「流星の絆の泰輔」だった。奇しくも、ごめんね青春!の脚本家は流星の絆と同じ宮藤官九郎さんだった。

 毎週、涙が出そうな気持ちでテレビにかじりついた。重岡くんのお芝居が好きだった。等身大の、どこにでもいそうで、だけどどこにもいない男の子。ぴったりだ、と思った。重岡くんの親しみやすい笑顔と、それなのに圧倒的な存在感はとびきりの才能だ。

 重岡くんのことが大好きで、毎日重岡くんのことばっかり考えていた。こんなに大好きなのに、いつか熱が冷める日が来るのだろうかと不思議だった。そう思うたび、二宮くんのことが頭をよぎった。だって私は、一度担降りというものをしている。怖かった。

 

 

 今の話をする。

 いま、私はとある舞台俳優さんに熱をあげている。舞台に通ったり、ツイッターやブログの更新に喜んだり、そのひとのことで頭をいっぱいにしている。

 どんなきっかけがあったのかはわからない。だけど、いつからか、番組を観なくなってしまった。あんなに楽しかったリトラは、LINEの通知に既読をつけるだけだ。CDは、アルバムは買ってるけど、シングルは買ったり買わなかったり。

 ツイッターを開けば、ジャニーズWESTの面々がたくさんのお仕事を日々こなしていることがわかる。映画に出たり、ドラマに出たり、舞台に出たり。少し前まではリアルな感覚をもって手の内にあった感動が、「情報」として目の前に現れることって、こんなに悲しいんだってはじめて知った。

 とても遠い。嵐を離れたとき、ああ置いていかれちゃうなあと思ったけれど、今度はちがった。遠ざかっていったのは私のほうだ。

 芸能人と呼ばれるひとたちのファンでいるってことは、常に手を伸ばし続けなくちゃいけないんだ、と思う。もちろん引退やどうしようもない理由で向こうが消えてしまう場合もあるけど、基本的には、こちらが手を放したら終わりだ。強制でも義務でもなんでもないけど、好きなら、好きでありたいなら、彼らを手放さない努力をしなければならない。

 先日、「なうぇすと」の横アリ公演に行った。ご縁があって、チケットを譲ってもらって、最後列からジャニーズWESTを観た。相変わらず彼はそこにいた、いてくれた。変わったのかもしれないけど、根本的なところは変わってないように見えて、それが嬉しくて、たまらなくなった。

 重岡くん、ほんとうに、かっこよかったんだ。重岡くんがセンターにいるジャニーズWESTが好きだし、「センター」というものが明確にあっても横並びで進んでいこうとする7人が、ほんとうに、ほんとうに好きで。好きだなあって思って、泣きながら、幸せなのにつらくてつらくて仕方なくなった。私は手を放してしまったんだなあって思い知った。

 

 

 胸の前に、うちわを掲げている。赤い文字、重岡大毅の名前。自担の名前。

 自担ってなんだろう、と思う。ジャニーズでいちばん好きなひと、という意味なら重岡くんは自担だろう。でも、こんな気持ちのままつかっていい言葉なのだろうか。わからなくて、わからないのに、私は縋りついたままだ。真剣に応援しているひとたちに失礼だ、とはわかっている。

 ジャニーズWESTはぜったいトップに立つって今も信じてる。彼らのビジュアルと、パフォーマンスと、人間性と、物語で、これから先、数え切れないくらいたくさんのひとを熱狂させるだろう。じゃあそのとき、私はどうしてるのかな。

 今日も、うちわを持つ手だけが放せない。